【現役ATが語る】アスレティックトレーナーとその歴史について学んでみよう

※写真のモデルはイメージになります。

はじめに

皆さんこんにちは、令和4年の11~12月にかけてカタールW杯が開催されましたね。

選手達の活躍もさることながら、スポーツや医療に携わっている皆さんには選手達の裏で活躍するスタッフの方々の働きにも注目が集まっていたのではないでしょうか?

実際のスポーツの現場では様々な専門家やスタッフの方々が働いているので我々は柔道整復師だけで無く、同業種、他業種の事にも詳しくないといけませんね。

というわけで、今回はアスレティックトレーナーと柔道整復師の違いについて紹介していきたいと思います。

まずは歴史について触れたいと思います。

柔道整復師、アスレティックトレーナーの歴史を知ることで、職業としての背景や見方が変わること間違いなしです。

今回は情報量の関係で柔道整復師の歴史について書いていきます。

柔道整復師の歴史

まずは柔道整復師の歴史についてですが、私は養成学校入学前、そもそも柔道整復師について怪我を診る資格という認識しかなく、その後も背景的なことはあまり理解していませんでした。

養成校に入るまでに入るまで知りませんでしたが、柔道整復師を一言でいうと「骨折、脱臼、捻挫などのケガに対して、整復や固定といった方法を使って治療を行う専門家」です。

医師として養成校の講師を行っていた先生がよく「柔道整復師は投薬と手術を行わない整形外科医だ」とおっしゃっていました。

その時は昔も現在と同じように医師とともに整形外科的分野において一定の地位を保ち続けてきたのかな?とぼんやり思っていただけでしたが、調べてみると実際は時代とともに変化し、技術を体系化したものだとわかります。

歴史を理解し簡単に説明するうえでよく聞くのが中世末期の戦乱時代の武道にあった殺法と活法です。

戦争は良くないものですが、それにより相手倒すための武器や機器類、医療の発展が起こって来たのも事実でそれらは表裏一体のものです。

殺法は、武術の殺戮手段等で活法とは、仮死者に施す救急法や、骨折・脱臼などの手当や治療等です。柔道整復や接骨業はこの活法に分類されます。

ですが、中世末期の武道により生まれたものではなく骨や関節の損傷に対する記載が養老律令(718 年)や最古の医学書「医心方」(982 年丹波康頼)にあり、平安時代の古書は接骨という言葉も出てきています。

つまり接骨や怪我の処置という考え方は中世ではなくもっと前からあったことになります。

では、いかにしてこれらが確立し世に広がっていったのか?について、書いていきたいと思います。

接骨術の確立

平安時代の本の中に接骨術に関する記載がありましたが、そこから日本は鎌倉時代、室町時代と戦乱の世に入っていきます。

鎌倉時代や室町時代に接骨書として確立したものが出てきたという情報は調べてみてもなかったのですが、個人的にはこの期間に時代的にも戦争が増え医学的な発展、また、西洋からの異文化も徐々に入り始めた事によって接骨業は認知や技術の発展を遂げてきたと予想しています。

江戸時代になり戦争も落ち着き、1720 年には、八代将軍吉宗の洋書禁制が緩和され異文化との交流や他国の医学的な情報も入ってきます。

その頃、接骨書は江戸時代に代表される高志鳳 翼の「骨継療治重宝記」(1746 年)や中国医学に基づく“ほねつぎ”(高志鳳翼)と西洋医学に基づく華岡流整骨術(華岡青州)と、我が国独特な“骨継療治”(各務文庫・星野良悦ら) と流派に分かれるほど分野が確立していきます。

しかし順調に見えた接骨業の発展も、他国の分野の情報が入り改革が起こることにより多難な道を歩む事になるのです。

接骨業廃止の危機

明治維新、幕末から明治初期において幕藩体制から国の様々な権限は天皇を中心とする体制へと変わります。

君主に従って土地、人民を統治する封建社会から資本主義社会へと変わり様々な分野において近代化が進みました。

近代化により国家は「日本の医療を西洋医療に一本化していく」という動きがあり、接骨・漢方・鍼灸・あん摩などの伝統的療法の規制を行いました。

これにより、接骨業を営業できるのは医術開業試験に合格し「整骨科医術開業免状」の交付を受けた者のみとなります。

今でいうと医師免許を持ってないと接骨術を業としてはいけないくらいの規制だったと思います。

かなり無茶苦茶な話ですがこれにより、接骨業を営んでいた者たちは実質的な廃業の運命を辿ったのです。

また、それ以降も規制は強化されていく一方となりました。

復活

接骨業の規制が進む中、柔術家や柔道家たちは道場の運営だけでは生活することもままならず、自分たちの生活を守るためにも、接骨業を法的に認めさせるための政治活動を行っていました。

それが接骨術公認請願運動で、1885 年内務卿山県有朋の名で発せられた「入歯歯抜口中療治接骨取締方」により、接骨の禁止令が出された時から始まりました。

その頃、同じ取締方中にあった「入歯口中療治」の人達は、全国に呼びかけ、会を組織して一致団結して議会に請願し、学校制度を確立し立法化により専門医としての歯科医師の確立を行いました。

話がそれますが、日本の歯科医師が医師という名称にもかかわらず医学部歯学科ではなく歯学部として学んでいるのにはその1つの要因としてこういった取り締まりによる背景があるのかもしれませんね。

話を戻しますとその後、1911 年になると、鍼灸・按摩も営業を公認され接骨術だけが取り残されるという状況になり、内務省の了承は得られなかったのですが当時の先生方の地道な活動、幾度にも及ぶ請願書の提出の末に接骨業は遂に法的根拠を得ました。

その後も第2次世界大戦後、占領下のためマッカーサー司令部の了解を得ることが出来ず、柔道整復術は再び消滅の危機に面しますが大臣等の協力もありGHQの了解を得ました。

終わりに

伝統的な医療技術というのは異文化や占領下ではこのように禁止されることが多く、そんな危機的状況の中でも過去の先生方の行動力によって現代に我々が知識や技術を学べている事を感謝しなければなりません。

また、去年スポーツと医療の祭典に参加した際に、スマホ一つで全身の筋緊張やバランスが分かりそれを改善するためのメニューまで表示されるものや、寝ているだけで機械が脊柱周りの筋肉を緩めてくれるような機械がありました。

情報の分野が進む時代でも我々が変化の波に乗れるように過去の先輩方を見習って日々学習していく必要があると思います。

今回は簡略化して書いている部分や紹介できない所もありますが、次回は続きということでアスレティックトレーナーの歴史について書いていけたらと思います。


執筆者情報

柔道整復師
日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー
横田 宗利 先生

学生時代からフィットネスクラブでの運動指導を行い、現在は都内の整骨院に勤務。

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